2016年7月26日火曜日

鼎にまつわる故事

鼎とは三つの足と二つの耳を持つ金属製の釜のことで、古代中国では祭祀、料理、表彰の具、釜茹での刑に用いられた。通常は3本足であるが、方形の鼎は3本ではなく4本の足を持つ。




 左の写真はいずれも中国の殷墟跡博物館に陳列されていた円形、方形の鼎である。
これらの青銅の鼎は、大きさはそれほど大きなものではないが、同じ殷墟の正面には非常に大きな鼎が展示してあった。この殷墟のものは、殷や周の時代のものであり、紀元前1500年のものである。
 下の写真は中国安陽にある「殷墟王陵遺跡」の正門近くに安置されている超大型の方形鼎である。これそのものが遺跡から発掘されたものかはわからない。ただし遺跡内にはかなり大きな鋳型跡が残されていたので、殷の時代にはすでにかなり高度な鋳物技術が発展していたであろうと想像している。
 中国ではこの殷が周によって亡ぼされた後、数百年を経て春秋戦国時代に入り孔子などの諸子百家の活躍の後ようやく秦の始皇帝による天下統一が完成する。



 鼎は中国の王朝においては、非常に大切にされていた。日本でいうとさしずめ「三種の神器」にあたり帝位の象徴とされてきた。
 中国に古くから伝えられている成語に「鼎の軽重を問う」というのがある。この意味は「帝位を狙う下心を持っている」という意味であり、これが転じて、「相手の内情や実力を見透かして、その弱みに付け入る」の意味にもなっている。  この成語が生まれたのは周時代の末期のBC600年ごろ楚の莊王が周王と洛陽郊外で対立していたころの逸話から生まれている。
 当時楚の荘王は春秋の五覇に数えられるほどの実力を持っていたし、天下に対する野心を持ち、周との一戦を構えようと虎視眈々と機会をうかがっていた。荘王はかねてから覇権のシンボルと言われ、周の王室に伝わるという「鼎」というものについて知りたかったので、使者にその軽重を尋ねた。使者は「鼎」について、それが夏の禹王が諸侯に命じて銅を供出させこれを用いて鋳させたものであり、朝廷が夏から殷にそして周に移ってからも700年余り周で受け継がれてきたことをとうとうと述べた後、「そもそも鼎の重さが問題になるものではない。要はそれを持つ者の徳が有るかないかが問題なるのである。鼎は常に徳のある所に移ってきており、周は衰えたといえども、鼎を伝えてきたことは天命の致すところであり、したがって鼎の軽重など尋ねられるいわれはない」と突っぱねた。荘王も力づくで奪うわけにいかず、兵を引き上げたという逸話が残っている。
 ところでこの鼎の行方は、周が滅びた後秦に運ばれる途中、泗水に沈んだといわれている。
    以上「中国故事物語」(後藤、駒田、常石著 河出書房新社)参照 

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