2015年4月24日金曜日

漢字:「復」の起源と由来

漢字:「復」の起源と由来
引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

复この字は会意文字である。甲骨字の复の字の上半分は亚の字(「亜」についての詳しい説明参照)ないし上古の時代にあった前後の門が直通していた神屋を表している。下半分は上下反転した足跡を表しており、神屋を通り抜けあるいは通り過ごして出ていくことを表している。金文は行人偏が加わり、復という字ができた。その右半分は甲骨文字と構造的には同じである。但しその形は少し美しく見える。小篆の复の字はいわば変化が生じ、金文で加わったギョウニンベンが省略された。楷書ではまた変化し复の字になっている。
 この字については、白川静博士と解釈はかなり異なる。博士はものの量を図る例えば上下に口のある升のようなものに下半分の記号を加えて、反復を表すとしている。
 复の本義祖先の神々達が行き来することからきている。そこから派生して循環往復するの意味になっている。即ち帰ってくる、帰っていくの意味である。
 "復"と"复"の音は基本的に同じで、一つの漢字の繁簡2体を作ったとも見ることができる、漢字の簡単化の時統一して复と書くようにした。これに対し白川博士は量器を打ち返して(上下逆さにして?)使うことを表していたところから、ギョウニンベンを加えて行き来を表すようになったと説明している。

漢字「城」へ行く前に


日本の城と中国の城、ヨーロッパの城

先日改修されたばかりの姫路城へ行ってきた。天守閣の外壁や屋根には漆喰を施し、見る角度によっては本当に真っ白に見える。別名白鷺城とも呼ばれる。外国へも行って、色々の城も見てきたが、シンプルにして建物本来の美しさという点では、右に出るものはないと思う。歴史的には、1600年代の初頭、関ヶ原の合戦で手柄を立てた本多家が池田氏の後を引き継ぎ、大坂夏の陣で敗れた千姫を迎えるために、大改修を行っている。現在の天守閣や西の丸は当時のままの姿を留めている。
 さて、中国における城は日本のそれとは趣を異にしており、日本の城が城下町の要を構成したと言え、多くの民は城壁の外に置かれ、いわば支配者が守るべき対象にはなっていない。ところが中国といえば、どこに行っても非常に大きな城壁があり、民百姓はその城壁の中に居住していた。劉備が曹操との戦いに敗れた際も、劉備は民を引き連れ城郭都市の中に逃げ込んでいる。
 古代の漢字の解釈にしても、城は守護の意味を持つ造字で城堡の意味とされ、説文では「城は以て民を護る」としている。ここらあたりの受け止めの違いは、中国においては、外敵といえば民族も違い、まるっきりの敵として対峙しなければならなかったのに対し、日本では昔から敵と言っても、民族が異なることはなく、同じ顔をして、ほとんど同じ言葉を喋っていた言わば内的な関係であり、城壁の意味づけが全く異なっていたのかもしれない。


  むしろ日本では城塞というものがおよそ発達していない。外国から見れば驚くほど無防備で、オープンだったのではないだろうか。先日イタリアでも同じような感想を持った。イタリアは、古くから都市国家が発達し、都市は城壁に守られ、城壁と外部は濠と跳ね橋で遮断されていた。右の写真はイタリアのピサの城壁である。ここには跳ね橋は見当たらなかったが、高い城壁と城門で囲われていたのを思い出す。


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漢字:「城」の起源と由来

引用 「汉字密码」(P728,唐汉,学林出版社)

  「城」の字は会意文字である。金文で城の字の左辺は「郭」の字の古文体であり、高くて大きい建築物を表し、城都の中を見渡し、また城を護る角楼のように見える。右辺は古文で「戌」の字であり、柄の長い大きな斧の象形文字である。そして両形の会意で防御用に作られた城堡の建築物を示している。 金文中の別の城の字は右半分の下辺に土を加えて、守護用の広大な土壁を強調している。小篆では変化の途中で角楼とその影響の合体図形がなくなり、又右半分の下辺の「土」が左辺に移動し、一個の土と成からなる会意兼形音文字となった。

 城は守護の意味を持つ造字で城堡の意味である。説文では「城は以て民を護る」としている。城壁から意味が拡張され、城壁を護る場所を示している。即ち城市である。「史記・孫子呉起列伝」では、魏の文候は呉起を以て将となし、秦を攻撃し、五城を奪取した。古文中、城、郭と同時に言うときは、城は内城を指し、郭は即ち外城を指す。城郭と連用するときは広く城市を指す。

2015年4月2日木曜日

漢字「亜」の起源と由来


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

 日本では昔から、亜流とか亜種とか亜硫酸といった亜の付く言葉がある。この亜いう言葉はいずれも、「本物ではない、2流のあるいは何かが足りない」という意味を含んでいるときに用いられている。アジアやアフリカなど地名につく亞の場合には必ずしもこの意味を含んでいるとは思えないが・・。いずれにせよあまりいい意味には語感として受け止められていない。やはり「悪」という言葉の一部に部品として使われているのは大きい。のではないだろうか。
 さて、この「亜」について当たってみよう。


    「亜」この字は象形文字である。もともと殷商の時代に、喪葬の習俗と祭祀からきている。この時期は大きな墓は等しく南北に向けられていた。殷商民族を見てくると祖先や宗族の死後その霊魂は不滅で彼らは士族の住む土地を自由に行き来することができると信じられていた。
     このため殷商人は地上にその祖先や心霊の為に「明堂」(いわゆる墓)を修築するのである。即ち前後に相通じる長方形の神屋で祖宗の神霊が裏の門から自由に行き来できるようし、前門は末裔が行き来するようにした。

     骨文字の「亜」はまさにこの種の「神屋」の輪郭の描写である。金文と小篆の「亜」の字は一脈相通じるものがあり、楷書と繁体字の原本は「亞」と書く。漢字の簡単化の過程で「亚」と書くようになった。「亚」の字は神屋の説明の本義であるが、其れとともに風俗礼儀の改変は既に消失している。
     而して亚の字は「第2」あるいは「第1級」の評価を受け得るには保留する。例えば杜預は《左传•襄公十九年》の中で「亜」について「次」なりとしている。
    亜の中の図形文字

     亜の字は第二の解釈で現在まだ用いられて例えば優勝者(冠軍)に次ぐものを「亜軍」と便宜的に称しているというような使われ方もする。