2012年8月31日金曜日

住まいの漢字 「寓」:漢字の起源と由来


男なら一度はあこがれる住まいではないか。この言葉からは、世の中の喧騒から離れ、花や草木、自然の風を愛し、何事にもつつましく、しかもよく弁え、それでいて世の中のことには通じているそんな優雅な少し「枯れた」文人を想像する。
「ラジオもない、テレビもない、何にもない」 それでいいではないか
引用 「汉字密码」(P721, 唐汉,学林出版社)


"寓 yi"は
手を使を用いてあるいは棍棒で蛇を追いかける意味。

"寓 yi" は、これは会意兼形声文字である。金文の "寓 " 文字、外部示す家屋の "屋根"の形、内里の古い文字の「禹」文字は、手を使を用いてあるいは棍棒で蛇を追いかける意味。小篆の "寓 "の字 は文字は繁化の規則通り、 "窝" (「巣」という意味)に移り変わった。楷書はこれを受けたが、基本は変化していない。

"寓" は日頃使われていない、もっぱら御客の為に準備した一時的な住い 

家の内に蛇がいる、無人居住のため、居住し入り込む内には、蛇を追い出して清掃しなければならない。だから、"寓 " は日頃使われていない、もっぱら御客様あるいは通行人の為に準備した一時的な住いと理解できる、即ち"客寓"。客がこのような家に住み、寄居することを示す。

《孟子・離委下》:"住む人のない私の室で。その中の "寓人 "の一詞は、人を寄居させるの意味。"寄居する " の義によって、また拡張して"寄託" となる。欧阳修の《酔翁亭日記》のように:"山水の楽、得心のいく心そして寓の酒。

哲理的な文学的体裁が包含した生活 

「寓言」 の言葉は、本来あるところに寄托するの意味だ。以降一種の哲理的な文学的体裁が包含した生活をいう。

2012年8月29日水曜日

「罪と罰」: 漢字の起源と由来


ドストエフスキーの「罪と罰」という小説はあまりに有名である。人間の性とも言うべき心の内面をえぐり出したものとして、深く印象に残っている。
 人間は最初から誰でも悪人として生まれるわけではない。性善説というより人間が生まれ落ちた時は、善悪もない真っ白な状態で生れ落ちてくると考えている。つまり白紙の状態だ。結婚式の時花嫁が白無垢の振袖を着るのも「自分は白紙の状態で嫁に行きます。あなたの好きな色に染めてください」というのとよく似ている。
 しかし次第に世の中で色々揉まれているうちに、悪に手を染める人も出てくる。しかしいかなる人も、悪に手を染めるについても必ずと言っていいほど、自分なりに大義名分つまり言い訳をする。「自分は許される」、「上司に命令された」、「金が必要だった」などなどである。「罪と罰」主人公も老婆を殺して当然だという言い訳をして犯行に及んでいる。
 そして、この言い訳で自分の箍が外れてしまうとだんだん歯止めが利かなくなる。このことは犯罪でなくてもごく一般に見られることである。自分にいわけを探すのではなく、自分を律することが出来る人こそ真に立派な人と言えるのだろう。大概は「仕方がなかったんだ」と自分を正当化するようになる。これが恐ろしい。
 昨日「罪」という漢字の起源を明らかにしたので、今回は「罰」という漢字に焦点を当ててみよう。罰は古代の罰は非常に残虐なものであった。今ではこのような残虐なものはもちろん許されないが、罪を犯すことを予防する意味で罰は必要なものだと思う。しかし秦の「商鞅」と言う人は、あまりに厳しい信賞必罰を行ったがため人々の反感を買い、八つ裂きの刑に処せられている。ほどほどが肝心ということか。
引用 「汉字密码」(P652, 唐汉,学林出版社)

「罰」は三つの部位の会意文字で罪人を処罰することを余すところなく表現している


 ”罰fa”、これは三個の要素からなる会意字である。金文の”罰”の字、右辺は”刀”の形をしており、刑に用いることを表示している;左辺上部の”網”の形は、捕捉することを表示している。また捕捉のやり方を表示しているともいえる。下部は”言”の字で、判決を示す。三つの形の会意で、罪人を処罰することを余すところなく表現している。小篆は金文を受けて、ただ”網”の形はいっそう形を変え、楷書では”網”を「言と刀」の上に置き、かつ”小刀”形を”立刀”に変化させて、”罰”と書く。

「罰」の本義は処罰するため、即ち過ちを処罰するという意味を表す 


 ”罰”の本義は処罰するため、即ち過ちを処罰するの意味を表す。清代の徐濒は《説文解字注釈》は曰く”罰を網と言葉と小刀からなる。「網」は罪の省略形だ;「言」は罪を決定した意を書く;「刀」は死刑から鼻をそぐ(yI)手足を切断する、頭髪をそり落とす、顔に入れ墨をする等の刑に至るまで皆刑を示している。”


現代漢語中の意味も古代と変わらず 


  《三国志・蜀書・諸葛亮伝》:”法律違反怠慢者はみずから、必ず罰する。”その中の”罰”は即ち処罰するの意味。この意味は今に至るまでそのまま用いて、現代漢語中で”懲罰、過料、罰没、体罰”などの語彙がある。

2012年8月28日火曜日

65年目の「罪と罰」:「罪」という漢字の起源と由来


韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領は14日、天皇陛下の訪韓について「(日本の植民地支配下で)独立運動をして亡くなった方たちに心から謝罪するというのならいいのだが、『痛惜の念』だとか、こんな単語一つなら、来る必要はない」と述べたという報道(「毎日新聞」 2012.8.14付け)が大きな波紋を呼んでいる。日本の新聞各社はこれに対し、早速反論を展開し、政府も中日韓国大使を呼びつけ抗議をし、各種外交上の手を打っている。韓国の大統領にしても少し失礼な態度であると思うが、そんなにカリカリするほどの問題ではないと思うのだが・・。こんなことを言うと火に油を注ぐようで、すこし危ないが、日本の国民も冷静に対応したいものである。
韓国の大統領も少し大人げがない態度だと思うが、日本も声高に喚き散らすのではなく、冷静に対応し、いたずらに民族感情をあおることは何としても避けるべきである。
 また、従軍慰安婦の問題、南京問題などについても、今後も、何か問題があれば持ち出されるであろう。「忘却の」彼方に押し遣ることなく、今日の問題として、国としても真正面から向き合い、真摯に襟を正すべきだろう。こうした日本の態度が、あってこそ韓国、中国、台湾、東南アジア諸国などからアジアの友人として迎え入れられるようになるだろう。
 靖国参拝の問題に対してもしかりである。参拝される方達は決まって、「英霊を祀ることは、日本人として当然のこと」と仰るが、ドイツの首相が、ヒットラーの墓前に花束をささげに行ったとしたら、世界のユダヤ人たちはそれを良しとするだろうか?あるいは世界の人々はそれを良しとするだろうか。日本が中国・朝鮮に対して行った侵略は紛れもない事実ではないのか? いかなる問題も自分たちだけが納得すれば、それで「文句言われる筋合いはない」ということではないだろう。
日本人の過去の戦争に対する態度で、司馬遼太郎氏も深い憂いを以て述べられていた。同じ道を引き返してはならない。

どうしても、靖国に祀るというなら、靖国神社を不戦の為の神社として位置付けてはどうだろう。そうなら世界中の人間も納得するだろうし、靖国法案一本でかたが付くと思うのだが。
 われわれは他人を一方的に非難する前に自ら内省的に考えることは自虐的なことでもなんでもなく、むしろ大人の立派な行為と考える。

 さて、このサイトの目的は漢字を通して文化を探求することであるので、本来の目的に立ち返る。ここで出てきた「謝罪」の「罪」とはいったいなんだろう。
引用 「汉字密码」(P632, 唐汉,学林出版社)



"辠”は奴隷の鼻を切り取ることを示している

 "辠”は“罪 "の初文字であって会意文字である。金文の "辠 " の文字の上部は "自 " で、鼻を示しており ;下部は "辛 " で、奴隷を示している。両の会意で、奴隷の鼻を切り取ることを示している。
 《説文》は "辠を解釈して、「法を犯す」なり、辛と自とから、いわゆる法を犯した者は鼻をしかめて苦辛の憂と言う意味となった。


始皇帝は「辠」の字が皇に似ているということで「罪」に改めた。



 図の示すように、小篆の "罪 " 文字二つがある、一つは金文の "辠 " から来ていて、もう一つは秦始皇が命令して作った新しい "罪 "の文字である。"罪 " の文字 を作って以降、「罪」は、法網に捕捉した下の不法の人を示している。

苟子の必罰主義 

 "罪 "(辠 ) の本義は犯罪者で、古代の割鼻の刑も示している。また拡張されて法を犯す行為、即ち犯罪をいう。《苟子・王制》にあるように、功無く褒めることもしないのは、罪もなく罰することもしないのである。"犯罪を犯した後、必ず処罰される、鼻を切り落とされ非常に苦しい目に会う。

 だから、"罪 " は又拡張され苦痛、例えば "受罪"の様に使う 。

 古代の帝王はたまたま天災と人災があったとき、人民反抗を緩和するために、往々にして"罪己诏 "を公布し、自責することを示す。ここの "罪 " の意味はいわば "呵責 " という意味だ。

2012年8月26日日曜日

呉:漢字の起源と由来

 日本では、呉越同舟などで聞かれる以外、あまり聞かれなくなった。呉越の戦いに係る成語としては、この他に「臥薪嘗胆」などがある。


 現在の紹興にその遺跡はあるが、その地に立てば、「兵どもが夢のあと」の様に時空を超越したものではなく、未だに地の底から這い上がってくる怨念の様なものを感じてしまった。越王と言う人はそれだけ執念深かったのかも知れない。


 写真は紹興酒の故里の紹興にある越王殿である。又上の写真はこの越王殿に行く道の城壁に彫られたもので、いたるところにこの成語があふれているという感じであった。この標語は近年に彫られたものであろうが、この山からは何かオーラを感じてしまう。
この時代が紀元前7世紀の春秋時代と言うから、やはり中国の歴史の凄みを感じざるを得ない。


















引用 「汉字密码」(P374, 唐汉,学林出版社)

  「呉」は会意文字である。甲骨文字の「呉」の字は、頭を傾けた形であり、まさに大口を開けて話している形状で、金文は口が旁で頭を傾けている意味が更に明確である。小篆は金文を受け継ぎ、楷書では呉と書く、簡体字では「口に天」と書く。他人に対して頭を傾け、一顧するに値しない気持ちがあって、大口を開けて話する、反駁を表示する。だから「説文」では「呉」は大言なりとしている。また地名・国名を仮借している。

 呉国は本来周代の諸侯国を指すのだが、以降もっぱら三国志の呉国(現在の長江中流と東南海一帯を指す。また中国人の姓氏の一つである。

2012年8月18日土曜日

「宣」 漢字の起源と由来


 「家・居室」を現す漢字が、社会の仕組みが発展するにつれ、単なる居室ということではなく社会的機能を表すようになってくる。この「宣」という漢字などは、完全に「王の宣旨をする部屋」というある意味、殆ど単一の機能に用いられている。
引用 「汉字密码」(P719, 唐汉,学林出版社)


"xuan " は会意文字だ。甲骨文の "宣 " 字は、上部は家屋の外形"∩ "を表し、内里は回転を示す記号である。二つの形の会意で、これが人が屋内走り回れる一種の大きい部屋と認められる。

  金文の "宣 "は、外枠と甲文は似ていて、ただ中は回転の記号が美観上対称になっているにすぎない。大いに巻いている様子と、その下はまた一つの点が加わり、家室前の足場も示しているようだ。またここから入っていく意味を表している可能性もある。

 小篆の "宣"の文字はこれから来て、楷書それ故に"宣 "と書く 。


 "宣 " 、《説文》では "天子が宣旨をする部屋と解釈している。ウ冠と「亘」の読みから出来ている。"宣“の本義は大きな部屋である。そこから引き出されて、王の居住する宮室を指す。《淮南子・本経訓》に記載されている "武王は武装した兵士三千を率いて、纣王を野に破り、宣室でこれを殺した。"ここの "宣室"、は纣王が居住する宫室の意味である。

 宣の "大きい家"の意味から、また引き出されて "大げさである"の義も出てくる。例えば《詩・小雅・鸿雁》では:"维あの愚か者は、大げさなことを言う。"ここの "宣骄 "は、"驕慢で驕った"という意味である。

 高くて大きな家の室内は当然明るいし風通しもいい。だからそこから引き出されて、"順調だ" の意味も出てくる。晃错の《賢良対策を上げる》のように:"政で明らかにしなければ、民は安寧ではおれない。" またさらに引き出されて「拡大して、発表して、伝わり広まらせる」の意味にも用いる。 "宣揚、宣旨、宣誓"など。この意味はさらに拡張され公開、明らかにするの意味にもなる。例えば "心に照らして宣せず、洩らして広める" など。

2012年8月12日日曜日

権力の象徴としての「宮」が世に現る。 その起源と由来


  今日は漢字の「宮」について触れる。「宮」は皇帝の居室とされるが、それは「堂」と呼ばれるよりもはるかに粗末なものである。なぜだろう?その一つの理由は、時代が堂の方が下っているのかもしれないということと、「堂」は神の住まいとして権力の象徴として公に誇示しなければならなかったのに比べ、「宮」は皇帝の私的な目的である居室として使用されたことが二つ目の理由ではなかろうかと考えている。
 殷の時代には瓦ぶきの立派な建物が作られており、ここで言及する建物はいくら私的に利用するといえ、時代的には大分遡らざるを得ないと考えている。さらに調べてみたい。

引用 「汉字密码」(P720, 唐汉,学林出版社)


 高さ1メートルプラットホームの上に位置した「宮」

 "宮 gong" は、会意文字である。甲骨文の "宮 " 文字は、その上は家屋外形の "∩" 、さらに内側には二つの口の字があり、これが多くの部屋が並んでいる建物を現わしている。安陽の殷墟の発掘の際に、長さが 28 米、縱 8 米の建物の土台を発見した。それは足場が繋がった高さ1メートルプラットホームの上に位置して、屋根は三十一本の木柱によって支えられて、二つの大きい使用区に仕切られていた。宮、かもしれない、この列部屋の描写の図である。

 金文の "宮 " 文字は金文を受けて、ただ一対の口の配列を上下の組み合わせとした。  小篆の "宮 " は二つの対の口を短い竖線で接続して、二つの部屋が通じ合うことを示し、その上部には一点が追加されて、まるで建物の屋根の背の棟の形を補充しているようである。楷書で"宮 " と書く。

 "宮 " の物象本源は部屋が多く並べられた大型の平屋である。 

 "宮 " の物象本源は部屋が多く並べられた大型の平屋である。史載、先秦では無論、居住者身分の贵贱、家屋の大きいものは、全て宮と称することが出来た。しかし秦以降は、"宮 "は王封建帝が公事と居住の場所と専ら指定した。例えば "阿房宫、乾清宮、故宮"など。古人は神様の廟は人の為の居室と比べはるかにきらびやかで寛大で、その中また居住している神霊はきらびやかだ。だから、廟宇も "宮 "と称す。例えば "紫薇宫(百日紅宮)、雍和宮 "など。

  現代はまたわりに大きい公共文化娯楽の場所を"宮 " と称している。例えば "少年宮、文化宮 " など。 

 "宮刑" は男を生殖器を去勢する刑罰 

 "宮刑" 、は古人の淫乱を懲らしめたりあるいはほかの犯行に対する一種の刑 :女幽を宫室の中おしこめ、永遠に男をみることを禁じる。男の場合は、生殖器を去勢して、永遠に女性を親しむことが出来ないようにする。西漢の武帝の時、李陵の為を少し庇っただけの理由で司馬遷は、宮刑に処せられた。彼は《報任安書》の中で、悲憤の内に書いた "膨大な宮刑の話をしている。(この刑は男にとって何よりも屈辱であったようだが、時代が下れば、刑罰ということではなく、自ら宦官になるため施術を行うものも現れた。それでも、宦官としての地位は低く、その地位に陥ったものは、皆ある種の劣等感に苛まれていたようである。そのあたりの事情はNHKのドラマ「蒼穹の昴」に詳しい。宦官もその任を解かれたりしたものは、自分の「お宝」を買い戻すこともあったようだ。 補足:筆者)

2012年8月10日金曜日

臭ーい話 :「厠」 漢字の起源と由来


  これまで中国古代の家に関する漢字の変遷について調べてきたが、ここで少し息抜きに「厠」について考えてみよう。厠と言えば云わずと知れた便所のことである。古代で実際に厠というものが作られたのは、随分時代が下ってからのことではないだろうか。
引用 「漢字源」(主編者 藤堂明保,学研)

 「厠」 漢字源:鼎の傍にナイフをくっつけたさま。厠は「ガンダレ(家を表す部首)+音符(則)」で屋敷の片隅に寄せて作った便所のこと



  トイレと言えば、筆者もお粗末トイレに遭遇したことがある。中国の蘇州のホテルの便所である。ホテルはたしか「如○」という名の大衆ホテルだったと思う。ホテル自体は安宿ながら、新しく清潔だったのだが、そのトイレがどうにも首をひねらざるを得ないものだった。 写真でも分かるようにトイレとシャワー室が一緒になっているタイプであるが、このシャワー室のドアは外開きになっているので便器につかえてシャワー室に入れないのだ。これはどう考えてもドアをつけ間違いの様に思う。外開きとしてもドアが手前に開けばまだしも向こう側に開くようになっているため、入るのには非常に苦労が伴う。自分はそれほどメタボではないが、それでもシャワーを浴びるのに体を捩って、中身が出ないように気をつけて、漸く中に入れたことを記憶している。
  
 この豪華版が次の写真だ。これと同じものに筆者が遭遇した。とある大学の、国際交流棟にある領導の事務室にそれが添えられていた。学生も出入りする事務室である日、改造されて、部屋の中に金魚鉢が備え付けられていた。いくら中国人が「領導」を大事にするからといって、これはないだろうと思っていたが、このようにインターネット上に全く同じものが暴露されるということは、中国国内では、このように馬鹿げた(失礼)慣習がまかり通っているように思われる。学生にかかわる費用はぎりぎりと切りつめておいて、こんなバカげたことがまかり通るとは、日本並みになって来たというべきかもしれない。 このデザインは私が見たものと本当にそっくりだ。ということは、同じ業者の設計施工によるものと思われる。同じ省内ならまだしも、省が違うなら、全国的な利権がその背後にあると考えざるを得ない。私自身の下種の勘繰りであればいいのだが。




またインターネットを見ていたら、抱腹悶絶もののトイレをアップしていたサイトを見つけたので、ついでに紹介したい。
  URLは次のリンク 貼貼。 興味のある方はどうぞ。但し中国語サイトなので、お含みおきを。


 そのなかで2,3面白そうなものをピックアップしたい。  私はここに上げた画像のばかばかしさを笑うというより、こんなことを大真面目に手を尽くして頑張る中国人に拍手を送りたい。これぞ文化なのだ。ばかばかしいが将に文化のきわものと言うべきだろう。










私はこの画像を見て、少しショックだった。というのは、どうすればこのようなものを作り出すという発想がでてくるのだろう。

中国人と日本人これは私の永遠のテーマではあるが、日本人には決してこのような発想は出てこないような気がする。

すくなくとも中国人は日本人に比べ、開放的であるし、大らかだ。

ここにはあまり多くの画像はアップしていないが、中国人は日本人の様にあまりいろいろ隠そうとしない。すくなくとも庶民の生活レベルではである。この河の縁の3つの便器に3人の「おっさん」が並んでたれている場面を想像して見ただけで・・。「おぞましい」とみるか?

2012年8月7日火曜日

住まいの漢字「堂」の起源と由来

時代もここまで下がってくると建物は大規模にして、壮大なものが出てくる。漢字もそれにつれ、「堂」という後世我々が大きな建物に用いる漢字が生まれてくる。堂々としたものである。この「堂」が歴史上に出現したのは、時代もだいぶ下ってのことと思われる。殷代の「宮」という宮殿を表す漢字の示す建物はこの「堂」よりもはるかに粗末なもので、時代考証がもう少し必要かもしれない。(宮が先か堂が先か?)
引用 「汉字密码」(P719, 唐汉,学林出版社)

堂の物象本源は、プラットフォームの上に建てられた高大な建築をいう

 "堂" 、《説文》は "堂“を殿なりと解釈する。土と「尚」の音からなる。"図に示すように、金文中では、堂を意味する象形を具有している。上部は両方に下がった屋根のデッサンの形になっている。(絵だけから見ると、かなり複雑な形状をしている) 下部は台を示し、その建築形状は古代の殿堂である。  金文の別の「堂」の字は上部は "尚" で、家面が両方に坂になっている大部屋を示している。下部は立った形でここでは、設置、建立を示している。堂の物象本源は、このような屋面が両方向に坂になっている建築構造から来ている。プラットフォームの上に建てられた高大な建築をいう。この種のような建物と故宮の大殿と故宮の製造形式は完全に同じで、中国の木造建築の代表である。小篆の "堂" の文字、元々金文の中の一つ字体は、ただ下部の "立つ" は土に変化してしまっている。楷書はこの縁で "堂" と書く。 

土台基礎は商代各所の宫室の遺跡で発見されている。 

 《中山王墓の宮殿の図》:"王堂は四角形二百尺。" その中の "堂"は即ち王の殿堂をさす。"堂" は、また専ら下に土壇があり、台基がある高い宮殿の建物を指す。土台基礎は最初商代各所の宫室の遺跡で発見されている。 土台で高いものは二米から三米までに達している。

「堂」の使い方、使われ方(古代から、現代まで)

 古い時代、官庁で行う儀式、案件を裁判する時に言われる "退堂、大堂に上る"などこの類の台基を指していることに基づいている。《論語・先進》;"由、堂に上がるも、未だ入室せず。"仲由(孔子の学生 )が前足場を上がったけれど、しかし室の中に入っていないことを言っている。"堂" は家族あるいは一族の人々の正式な部屋で、尊者がいるところである。だから、この事から、同じ祖父の縁続き関係のものを、例えば "堂房、堂弟 "などという。

 現代の漢語中で、 "玄関 " は各種の活動が行われる大型の家屋をいう、例えば "公会堂、食堂、教室 ";またホールの名称あるいは商店の商号などにも用いてる。例えば "懐柔堂、同仁堂" など。

2012年8月4日土曜日

住まいの漢字 「尚」:起源と由来



 家屋の建築技術は更に発展し、屋根の形も「片流れ屋根」からさらに高級感のある切妻方式が現れる。この形式は殷商の邑では、多く使われ、大邑(いわば首都に当たるような大都市)では、大分普及していたようである。今日の北京などにもみられる、さらに家と家を組み合わせたパッケージ住宅「四合式住宅」が見られている。この形式は日本の京都などにも見られる、「町家」の建築様式にも受け継がれているようで興味深い。筆者が中国の殷の都のあった安陽という街の博物館にもこの手の建築様式のモデルが展示されていた。
  この「尚」という言葉は、原義は切妻屋根のことであるが、そこから派生して、「高貴な」という意味にも用いられる。日本でも「高尚」などと品のいいことの形容に良く聞く言葉である。

引用 「汉字密码」(P717, 唐汉,学林出版社)

"尚 " はもともと八の形をした屋根の付いた屋舎という意味

  "尚 shang"、これは会意兼形声文字である。"尚" の字の甲骨文と金文共に皆は上下の結びついた構造になっている : 下部は"同" で、 "屋舎" の形を示している、上部は"八 "に似ている記号で、両方を切り放す意味を示す。ここで、両形の会意で、これは一種の屋根が両方に落ちた家を示す(日本では切妻という)。小篆の "尚" は変化して、屋根の頂部の一点が竖線になっている。楷書は将に違いも違い、 "尚"となった。

"尚 " 屋根の形から、高貴なという意味が派生した 

 "尚 " はもともと両方に下がった屋根(日本では切妻式という:筆者注)がある方形の大部屋をさす。円形の家及び片方に落ちた屋根(日本では「片流れ屋根」という:筆者注)と比べ、造形上で"増加 "があり、一つのランク上の尊貴なものであるはずだ。だから、"尚 "は尊崇という意味も持ち、重視するの意味にもなる。"尊さ " 意味から引き出されて、 "尚" の字はまた高く攀の意味がある。特に古代の同じ王帝の女性の結婚のことを指す。《史記李斯列伝》の如く:"もろもろ男すべて秦王女を賜り、女性全部秦の諸公子に嫁ぐ。

 "また延用され官位も表した。例えば "尚書"の如し。

"尚 " はさらに派生語を生み、「未だ」の意味を持つ。時期尚早

 "尚 " は副詞を作る時に、 "未だ"に相当して、これは"もう一面の屋根"があるの意味からの延用されたもの。 この詞義は、現代の漢語の中で存続して、例えば "時期尚早、まだ一息命がある " など。

2012年8月2日木曜日

住まいの漢字:「宋」の起源と由来


 中華民族の先民たちは、人口が増え村落が発展すると、当然のこととして建築様式の発展が生まれる。
 
 紀元前4、5千年前の仰韶の時期には人々の家屋は前回見た浅穴式の家屋から抜けだし、さらに地上の上につき出し、四方に柱を建て、泥壁をもった、より快適で、より堅固な家屋が出現する。


 この仰韶時代は河南省仰韶遺跡や陝西省半遺跡の辺りに栄えた文化を言う。食物は畑作で、粟や黍が中心で、豚、犬、鶏を飼育し、陶器は彩陶土器で、素焼きの上に赤や黒で彩色したものを特徴とする。

引用 「汉字密码」(P716, 唐汉,学林出版社)

甲骨文、金文、小篆の「宋」

  甲骨文、金文、小篆及び楷書の "宋 song" の文字は、形体は似通って、同じ流れを汲んでいる。上は "内 " 、下に "木 " と、明らかに内と木からなる会意文字である。




"宋 ": 蒙古のパオを思い出す

  実際に、これは上古の先人民達が木を梁柱にして、架設した地上形の居室である。このような家屋は六千年前に仰韶の時期に既に現われている :家屋を高く地面に出し、柱によって屋根を支える、四周は杭で支え、泥で塗った壁だ。このような木柱によって屋根を支える方式は容易に人々に蒙古のパオを思い出させる。

松の木は先民達の第一選択肢 

  屋根を支えるの木柱には直木を当てる、切り口は荒く、虫が出てこなくて、伐採して使用するのが容易である。黄河の流域では、松の木は先民達の第一選択肢である。実際に、宋と松は同じ音であるから :林では "松 "といい、室についての時は "宋 "という。これも商民族が松木を神木と見なした縁由の一つだ。



現代の漢語の中では、原義は失われ国名に常用されている 

  中夏民族の居室建築の発展に従って、"宋 " の文字の本義もう消えてなくなっている。現代の漢語の中で、 "宋 " は国名に常用され、王朝名、氏名にも使われている。又漢字の字体を指すようにもなっている、即ち宋体あるいは宋の字体を模した字体を指す。

2012年8月1日水曜日

住まいの漢字 「宅」の起源と由来



「漢字は生活の反映だ」はこのサイトの基本的な概念だ。
それを最もよく現わしているものの一つに、住まいに関する漢字の起源と変化である。1万年前ごろは、氷河期も終わりになり、人間はまだ穴の中に住んでいた。この穴は自然発生的には崖の淵に出来た洞穴だったろう。このことは、日本でも、鍾乳洞に古代人が棲息し、生活を営んでいた土器や矢じりなどが発見されることでも明らかであろう。
 そこで生活する期間が過ぎると、人間は平地に出て群れをなし部落を構成するようになる。初めのうちは非常に原始的な住まいで地面に穴を掘り、穴の上には覆いをかぶせて、雨露をしのいだ時期が長く続いたであろう。
 そして7,8千年前ぐらいになると、その穴も次第に浅くなり、いわゆる住居として外見も整っていくようになる。ここで取り上げる漢字はいわば今日日本の遺跡でも見られる「竪穴式住居」と言われる住居を表現した「宅」という漢字である。


引用 「汉字密码」(P716, 唐汉,学林出版社)

穴から出て新しい建物「宅」への飛躍

 ”宅のzhai”は、元来1個の指事字である。甲骨文の”宅”の字は、まさに屋内に柱を立てることで、即ち”はらい”を1本を増やして、覆い屋根を建てた家を強調している。上古時期は、人々は穴を掘ったのち、最も重要なのは穴中央に柱を立てて、屋根を造ったことである。

「宅」は建築過程の直観的なデッサン

 ”宅”はちょうどこの浅い穴式の建築過程の直観的なデッサンである。金文の”宅”の字は、指示符号の一つのはらいが、いわば横になっていて、建てた橋の梁木の格好になっている、概ねこの時期の建築が既に地面建築に発展し、柱梁一体化になったためである。小篆の”宅”の字はいわば形声字に変化している。《説文》それゆえ”宅“を解釈して、人の居也。ウ冠と発声を表す屯(zhe)からなっている。”楷書”は小篆を受けて、従って”宅”と書く。

「宅」の字の発展過程

 ”宅”の字の発展過程は、華夏民族の建築の様式の発展による。”宅”字に対した分析は、我が国古代の木造建築の源ともいえる。これから、どのように産着の時代から一歩一歩、最終の大きな気勢を体現し、周密な建築構造体系を実現したかを見ることが出来る

 ”宅”は古代に元来”造営”の意味であった。それが後で”名詞化“し、”住所”の意味に取って代わった。現代の漢語中の”家屋敷、住宅、大邸宅”は、全部ここから拡張されたものだ。