2010年7月3日土曜日

幸と不幸のはざ間で Part II

 前回、甲骨文字の解釈では、幸の本義は「手枷、足枷を示している。いわば古代社会で捕虜や奴隷をつなぎ止める一種の刑具であった」と説明した。そして、不幸の象徴を表す「幸」が、「殺されずに幸いにも命を取り留めて生きていることは実際一種の幸運なことである」を表しているという解釈を聞いて、一種の感動すら覚えた。

 これは老子が「禍兮福之所倚、福兮禍之所伏」(禍、福の寄る所、福、禍の伏するところ)という言葉に受け継ぎ発展させた思想ではないのか。老子は春秋時代の人といわれている。紀元前500年前後の人である。そしてそれとほぼ同様の時期にギリシャでヘラクレイトスが「万物は流転する」という弁証法的思想を説いている。

 甲骨文字ができたのは、老子やヘラクレイトスより1000年も前のことである。東洋哲学恐るべし。

 中国人はこのような太古の昔から、このような考え方をしていたのかと改めて感心をしている。この思想はどこか現状を達観した、ある意味では突き放した物事の捉え方、そのくせ決して現状を肯定しない考え方をしているように思う。

 日本人ならどのように捉えるだろうか。果たして「手かせ足かせを幸い」と認識できるだろうか。日本人は諦観の上に立った「現状肯定」に早々と行ってしまうような気がする。

 この考え方の違いは一体どこから出てくるのだろう。これを探ることは永遠のテーマのような気がする。

2010年6月14日月曜日

幸と不幸のはざ間 漢字「幸」の起源と由来

民主党の菅直人新首相は「最少不幸社会の建設を!」と国民に対し呼びかけた。それに対し自民党の小泉進次郎氏は「自民党は最大幸福社会の建設を」と訴えた。この場合、キャッチフレーズだけからいうと、菅直人氏に軍配上がる。
小泉氏のは耳障りはいいが、中身のない云わば戯言である。何故か?「幸福」という価値観は人により千差万別である。その曖昧な概念を政策とする時、その政策も曖昧になってしまう。
これが政策じゃなく、女性に対する囁きならば、話は別だが・・。
さて、ここで幸、不幸とは一体なんであろう。漢字のルーツから、その中身に迫りたい。唐漢氏の「漢字の暗号」を参照して、進めたい。

「幸」は手枷の意味
 「幸」の甲骨文字は、古代社会で捕虜や奴隷をつなぎ止める一種の刑具を表している。いわば手枷、足枷であった。
有史以前はこの種の刑具は簡単に作れた。木を切り取って、腕をその木の中に閉じ込め、両手の間に木の棍棒を差し込み細い枝ででくくった。
このように、「幸」の本義は手錠である。この「不幸の象徴」がなぜ今日のような意味を持つようになったのか。
上古の社会にあっては、捕虜の命は豚や犬よりも卑しく、殺されずに命を取り留めて生きていることは、本当に幸運な出来事なのである。よって「幸」はまた「幸いにも」という意味を持つ様になったといわれる。

さて、件の菅氏が「幸、不幸」の意味を使うのに中国の古代社会の概念を用いてなければいいのだが・・・。つまり、「君たち死ぬよりはましですよ」じゃないんでしょうね・・。

2010年6月13日日曜日

貢物になった女性たち

昨日の記事に「西施」のことを書き、このような話は中国に5万とあるとしたが、実際に5万あるのかどうかは知らない。ただかなりの数になるのは事実のようだ。
この西施は当時の越王勾践が夫差との戦いに敗れ、大臣の范蠡の諌めに従い、夫差の奴婢となった時、やはり范蠡の助言に従い、夫差に貢物として差し出されたといわれている。
これが、かの有名な「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」などの熟語を生んだ歴史の舞台である。
また日本では後醍醐天皇が隠岐に流される際、奪還を図った児島高徳が残したと言われる歌にも引用されたことからも年配の人には、よく知られている。
『天勾践を空しうする莫れ。時に范蠡無きにしも非ず』
   天は勾践を見捨てなかったように、貴方をお見捨てにはならないでしょう。
いざというときには范蠡というような人物が出てこないとも限りませんからという意味である。

さて西施の他に、下の女性たちも数奇な運命を辿っている。
  • 王昭君  前漢の武帝のとき匈奴の頭目に差し出された女性
  • 妹喜   バッキという。古代の「夏」の桀王に彼が滅ぼした有施氏の国から貢物として差し出された女性。桀王は妹喜の色香に狂い、「酒池肉林」と称せられる、奢侈淫乱を旨とする遊びを行った。このため夏朝は急速に零落してしまった
  • 姐己  ダッキという。古代「殷」の纣王の下に、有蘇氏の国から献上された「姐己」は先のバッキに輪を掛けたような悪女であった。このため「長夜の飲」といわれる常軌を逸する狂態が120日にもかけて繰り広げられたという。これを戒めたものは「ホウラクの刑」といわれる、がんがんに焚かれた炭火の上に渡された油を塗った銅の棒の上を渡らされる刑に科せられ、燃え盛る炭火に落下して命を落とした人間を纣王と一緒に鑑賞して楽しんだという。
この他有名なところでは、呂布や玄宗皇帝などが、女性が元で命を落としたり、政権を追われたりしている。これらの女性たちは、悪女の代表のように言われるが、本当は犠牲者の一人ではあるのだろう。ただ、彼らは単なる犠牲者ではなく、ある意味積極的に係わっている面もあり、歴史的評価では難しい局面に立たされてしまうのは仕方がないことかもしれない。

2010年6月12日土曜日

漢字の「美」はなぜ羊を頭に被っているのか

 今まで、男と女に係わる漢字を見てきたが、ここで特に女性にとっては、関心事の主要な部分を占めるであろう(失礼?)「美」という漢字の由来について触れてみたい。
 女性で美と来ればやはり「美女」を避けて通らぬわけには行かない。中国の4大美女といえば、西施、王昭君、貂蝉と楊貴妃といわれている。最近では、映画レッドクリフでも有名になった、呉の将軍周瑜の妻小乔もその中に加えるべきなのかもしれない。小乔についてはよく知らないが、西施、王昭君、貂蝉と楊貴妃の4人については、「月は閉じ、花は恥じらい、魚は溺れ、雁は落つ」とたとえられるほどの美人だというからすごい。
 西施は、彼女がある時水辺で魚を見ていたら、魚が彼女の美しさに虜になってしまい、ついには泳ぐことを忘れ、海底に沈んでしまったという逸話があるほどの美人だということである。私の見た中国映画では、越が呉の夫差に戦いで敗れた時、越の王から呉の夫差に貢物として差し出され呉の夫差の心をとりこにしたという筋書きになっていたが、これは作り話であるかも知れない。というのは、中国ではこんな話は五万とある。また彼女に纏わる成語で「東施效颦」というのがあるが、これは後日紹介をしよう。
 王昭君は後漢の人で、匈奴の単于という王に嫁入りをするが、彼女は「その北の国を渡っていく雁が彼女の美しさに見とれ落ちてしまった」と喩えられた。これも面白い話があるが、別の機会にしよう。
 貂蝉については、その美しさには月もその前には自らその顔を閉じてしまうという様に例えられた。
 楊貴妃については余りに有名なので、ここでいうまでもないかもしれないが、「花も恥じらう」と云う言葉で表現されるが、この言葉は今でも生きている。

 さて、本題に入る。

甲骨文字 「美」

唐漢氏によると、 「美」は「羊」と「大」の2文字で構成される会意文字である。「大」はここでは健康で強壮な男子のことを表している。又羊の大なること美しいという意味も含んでいる。ところが日本の白川博士によると、これは羊の全体形を現す象形文字であるという。白川博士は羊はそもそも神にささげられる生贄と使われていた。神にささげられる際に全身が無欠の完璧なものでないと困る。何処にも欠陥のない羊を美しいとしたとの説をとっておられる。

甲骨文字「羊」

しかしこの議論の前にそもそも「美」という文字は、今日使われるような「美しい」という概念を表していたのであろうか。 


「美」の字は上古の先民はその意識の中に4種の感覚を持っていた。
  1. 視覚上、羊の体が太って強壮な姿態から受けた感じ
  2.  味覚の上から羊の肉が脂の多い感覚
  3.  触覚上、羊の毛皮から防寒の必需品とすることを期待し、そしてその生産品の心地よい暖かさの感覚
  4. 経済的観点から、羊の交換価値を思い、それ故に生産を持つ喜び
 この4つの感覚が入り混じって、間違いなく、かすかに打ち震えるような心の中の「美」の感覚をもっただろう。しかしこの「美」の感覚は今日とは異なっていたのではないだろうか。
 北方人の美意識の中には、「大きいことは美しいこと」という観念が根深い。部屋から陵墓から工芸品に至るまでである。南方人は精緻、細かく且つ複雑であることを求める。しかし北方に行けばいくほど、粗く雄大で且つ大きい。それから段々審美意識中のたましいになった。
 「美」の字は羊と大が合わさった会意文字で、「羊は大きければ美しい」「人は羊のごとく壮健なれ」という理解もできる。但し両者の解釈は皆「美しいことはいいこと」という基本概念の帰結である。文字学の角度から言うと、「美」の字の本義なのだ。
これ以外にも、「美」下の部分の「大」は男を表し、古代では立派な男は頭にりっぱな羊の頭の被り物をしていて、これが「美しい」という感覚になったという話もある。

2010年6月10日木曜日

道という漢字は本当に恐ろしい過去を持っていたのか

  最近、漢字検定が普及した結果なのかもしれないが、本屋さんに行っても漢字の本が書棚に並んでいるのを見かける。そして検定に関するものについでよく見かける。さらに漢字をその起源から説き起こそうという本が幅を利かせるようになっている。


 漢字の発生は多分に呪術的な部分があり、何せ古代のことでもあるので、まだまだ謎に包まれている部分が多い。それだけに漢字の解釈、起源については百花繚乱である。実にさまざま本が書かれている。中には随分いい加減なものも見かける。たとえば漢字の起源それも甲骨文字について解説するのに日本の古代のことをあげて説明しているものさえある。このようないい加減な内容でいたずらに恐怖心をあおることは許されないとおもうのだが。

  さて、今日は「道」という漢字に焦点を当ててみたい。なぜこの文字を取り上げたかというと、この漢字というのは恐ろしい漢字だというのがいろいろな本に書かれているからだ。あの有名な白川博士も、古代において、道には怨念が宿っていたとされ、その怨念をふり払うために、異民族の首を切って歩き、それでもって悪霊を追い払うことができると信じられていた。道とは「行」の間に首を手で下げたことを表す記号(文字)から構成されているといっている。


 しかし、首を下げて歩くような行為から、孔子や老子の説く「道」の漢字に至るには少しギャップがありすぎる。そこでわが唐漢氏は、これをどう読み解いているのであろう。ご登場願うこととする。
道は道路のことである。車も馬も通る道は皆道路という。古代の道は小道と大道の区別はなかった。甲骨文字では、道の字は「行」と「止」という字からできており、十字路と脚ということから歩く道であることを示している。金文の道の字は、「行」と「首」に変わっている。これは道がその当時、遠くまで人の顔がきれいに見渡せる広い大きな真っ直ぐな道路のようなものであったことを示している。


小篆の道の字は第2の金文を受け継ぎ、従と首からなる会意文字に変わっている。楷書ではこの理由で道と書かれている。

 記録によると殷から少し時代が下った周の時代には、「牛に引かせて,遥か遠くの場所に店を構え」とあるように、当時の陸路の運輸が既に四方八方の段階に至っていたということである。両周の時期には各地の封建諸侯と王室は密接な関連を保っており、さらに兵、車戦争の特質に対応するために全国は道は礫のごとく平らに、矢のごとく真っ直ぐに修築され、道は周行、周道と称されるに至ったという記録もある。
 道の本義は大きな道である。即ち平らで広々とした道のことをいう。その言葉の意味は道路を経由して、方向、道のり、あるいは「志同道合」のように同じ志を持つという意味まで拡張されている。又したがって行く、行き渡るという意味に拡張され、道理という意味に用いられ、物事を探求する原則、標準という意味に使われるようになった。
  唐漢氏の解説は随分あっさりしている。甲骨文字から金文に至るまでの間、「行」という字の間の「足」がなぜ「首」に変わったのか、そしてそのことが唐漢氏の言うように「遠くまで人の顔が見渡せるほどになった」から足が首に入れ替わったという説明には少し飛躍があるような気がする。これ以上は今後の研究に待たなければならないのだろうか。


2010年6月8日火曜日

漢字「合」の由来と起源

  近頃、ニュースなどでよく聞く言葉は「日米合意」である。合意というのは双方がお互いの利益を認め合う成文もしくは不文の了解事項である。そこでは条約と違って、お互いの平等互恵という側面が重視されるのかもしれない。「不平等条約」はあっても、「不平等合意」というのは聞いたことがない。どんな国でも、不平等なことをわざわざ「合意」しない。

 さて、前置きが長くなったが、今回は合意の「合」の漢字に焦点を当ててみたい。
 これは会意文字である。甲骨文字、金文、小篆でも、構造的には同じで、上部の「A」の形は男性の生殖器の省略形であり、下部は女性生殖器▽の異形の口である。

両形の意味が合わさって、男女の性のつながりを表し、性交、合歓を表す。

それから拡張され、一般事物の符合、集合、会合など物体間のくっつき合うことを表すように用いられて来た。
唐漢氏によれば、「合」のもともとの意味は性交そのものであることになる。

これに対し、日本の白川静先生などは「合」の下部の口の記号は「サイ」を意味し、神のお告げを入れる入れ物だと解釈されているので、「合」全体の解釈も自ずと変わってくるだろう。

  ここで映画「ダビンチ・コード」を見られた方は思い出すだろうが、主人公が聖杯の秘密を解明するくだりで、「山の形は男を現し、V字形のものは女性を表すのが世の中の一般的な表記法だ」という箇所がある。この解釈は万国共通のようにも思えるが・・。文字や符号が生活実態を反映したものか、抽象的な概念である「宗教・神」を反映したものか、さらなる議論が必要だろう。

2010年6月4日金曜日

「婦」の起源と由来 太古の「婦人」は家を持つことのでき、家の中心を占めた

「婦人」という字が、日本の歴史に登場して久しい。婦人参政権、婦人会、主婦、看護婦など等である。しかしこれらは今では少し古い感覚で受け止められるようになっている。
少し前、「婦」という字は「女が箒を持っている」ことを表している字などを社会的用語として用いるのは「女を家に縛り付ける封建的遺制である。という議論まで飛び出して結果的には、婦人という用語は社会からある意味で抹殺され、いまではその代わり、「女性」という語が表舞台に登場した。
こうなると婦人という言葉もいわれなき差別の末社会から放逐されいささかかわいそうな気がする。
 さて、ここではこの漢字の男女シリーズでこの「婦」という漢字を取り上げてみる。本当に昔から虐げられた女性の象徴であったのか。もちろん勝手ながら、唐漢さんに登場願うこととする。

甲骨文字


小篆

 妇は「婦」簡体字である。甲骨文字の婦の字の左上方は黍の穂を突き刺して作った箒で、右側は跪いた女性である。両者の会意で手に箒を持った人即ち「婦」を表している。小篆の婦の字はへんとつくりが整えられ、女の字は箒の左に移った。箒の形はすでに象形からの離脱があるようだ。簡単化され「婦」とかかれるようになった。
 「婦」の字は一個の会意字で構造上女性が部屋を清掃する特徴が強調されている。しかし確かに言えることは殷商の時代は、女性は本当の意味で家の主であって、母系家族の中で個人に割り当てられて部屋を使用していただけなのだ。決して自分で生んだ個人の子供のための使用ではない。
この構成の中で、家では却って男と交わりはなく無関係であった。男は小さいときは母親のひざ元で暮らし、成年後は男子専用の集合住宅である「公宮」にすんだ。男子に家はなく、女のところで客として寝泊りしていたに過ぎない。女性は家をもち居室は清掃をし家事をする。
 「婦」という字はまさに現実の反映なのである。だから「婦」の本義は個人の居室を指し、男子を留めまたは留めることのできる女性をさすのである。父権制が確立して以降は結婚した後の女性を指すようになった。
 後世になって、言葉の意味の拡大で「婦」もまた婦女の通称となった。但し古代にあっては、婦はもっぱら既婚の女を指し「女」は一般的な意味の女性を指し、2者は混用することはなかった。ただ近代にあっては、婦女と女性の通称になった。
キーワード:婦人

2010年6月2日水曜日

「男」という漢字の起源と由来は

今回は引き続き男と女の問題について上古の昔に戻ってみよう。

甲骨文字_男
男という字は会意文字である。甲骨文字の字の左は「田」である。この意は農耕のことである。

右側は「力」。これは「加」や「幼」の中の記号と同様である。元々は男の生殖器を指しており、ここでは男性を示す記号である。


小篆_男
 金文の男の記号は田の下に来ている。小篆の形体は基本的には金文と同じである。ただ「力」という字が完全に「田」の下に来ており形体もまた少しごちゃごちゃしている。楷書の「男」は小篆を引きついているが、「田」と「力」で簡単明快である。

殷商の初期、農耕はまさに土地を焼き、木の先を尖らして地上に穴を掘り、種をまいた後土をかぶせて、農作業を終えるといういわゆる焼き畑農業が行われていた。この種の簡単な労働は主として女が受け持った。しかしながらたとえ農耕の主力が女としても、氏族の集団で狩をしたり、作戦首領は男の担当であった。このようにして甲骨文字の中の「男」の字は、商王国の中でもっぱら農耕部落の首領をさすようになった。


史書に記載している周の時代の「公候伯子男」爵の中の男爵は常々農事に功のあった臣に授けられる爵位である。この種の制度は殷商の時代の「男服」に源を発している。即ち「男服」とは常々農耕に従事しさらに王に農産物を貢ぐ部落の首領あるいは小規模の候国の王のことである。
周が滅んで後、華夏民族にとって民族的歴史に真の農耕時代をもたらされた。このときから首領活動は減少し、農業産出物が食物の本源的な主体となった。更に体力の強壮化によって、男子は農耕の生産の主体を担った。これに反し女子はその生理的条件と社会的地位の制限により、農耕領域では二次的な生産者の位置に下がってしまった。そうして家務を切り盛りし、桑や麻をつむぐことを主要な職務となった。
農耕と男子のこの種の関係は、「男」の字に新しい意味を付け加えることになった。農耕即ち男子のことである。「説文」(漢字の集大成された古文書)で「男は主人である。田と力から、力を持って田をなすことを男という。」
男の性別の意味が氏族の首領の意味に取って代わって以降、畑の中で労働する男を指し、さらに拡大して一般に成年男子のことを言うようになった。もちろん限定された使い方で、男の子を意味したり、息子を意味する場合もあるが・・。


2010年5月31日月曜日

「女」という字の起源、由来

前回から女や男すなわち性にまつわる漢字をレビューして行こう。ここで参照するのは中国の唐漢さんという方の著作であるが、彼は民俗学的な立場を取っておられる人であり、私は氏の漢字学のもっとも大きなアイデンティティーはこの部分にあるのではないかと考えている。

ますは女という漢字のルーツに迫る。氏は以下のように解析する。

「漢字の暗号」より転写

 女という字はそのままの象形文字である。甲骨文字の女の字は左を向いて膝を折って跪き、状態をまっすぐ立ってて、上部の女性の胸をわざわざ描いて、女性のバスト、ウエスト、ヒップなどが余すところなく特徴的に表現されている。 
古代人はなぜ女という字をこのように作ったのだろうか。実際上、この種の姿勢は本来古代人が服を着て、家にいる形である。華夏民族は早くから服を着ていたかあるいは体の前に布をぶら下げていた。後になって「前後」を覆う布になり、そして更に変化して全身を布で覆った衣服になった。殷商の時代に至って、大多数の民衆は、日常は裸足で、脚を包むような短いスカートで、中は今の人のようにいわゆるパンツはつけず、何もはかない。明らかにこのような服装をして、唯一つの草の寝床以外は何もない居室で、ただ跪く姿では、陰部を隠すのがやっとであろう。しかし跪くのは小休止するのには非常に便利である。「女」という字にこの跪く姿勢を当てたのは、これが上古の生活の真実の姿であっただろう。
 金文の字の女では基本部分は甲骨文字と同じであるが、ただ女の頭の上部分に一本の横線が増えている。実際には簪を飾りにいくらかの装飾品がつき、女の子の年頃の実際の姿を示したものだ。小篆は金文を引き継ぎ、しかし形象は次第になくなり、更に隷書化の過程で書くための便利さへの要求がいっそう高まり、形を変え楷書の時代になって現代の女という字になった。
この右の絵は岩の上に描かれた男と女の絵であるが、男女夫々の特徴をそれぞれ捉えていて大変興味深い。
 女の乳房、男の睾丸がリアルに描かれている。
 甲骨文字の「女」という字は、見ただけで女と分かる字となっており、一種のなまめかしい雰囲気を漂わせているのも又面白い。


2010年5月29日土曜日

男と女と漢字

 食べたり飲んだりすることは一個の生命体が存続するための基礎である。性交は、ある人は自然法則の男女の交流に合致するものであり、これは人類が続いて存続していくための保障であると説く。孔子のように聡明なものでも、「端的にいうと食、色、性に帰結する」という。

 象形文字が生まれて、文明時代の到来を暗示していた、丁度その時期に、華夏民族の中での両性の関係に一大変がもたらされた。それは、捕虜で連れて来られた他の部族の女性に起因するもので、すなわち戦争をして絶えることのない戦利品から来るものであった。帝王から首領に至るまで、男性戦士は女性の捕虜を占有した。このことで母系氏族制度の社会の仕組みは瓦解をはじめ、代わりに起こってきたのが、王権父系制であり、そのことは即座に有史以前の両性の根本的変化をもたらした

  意義の上から言うときっと、象形文字の中に蓄えられた両性に関する情報は、近代からのものに比べて、未だ未開化の段階の民族資料や傍証として、もっと真実を示し、また興味深いものになった。

  漢字の解明は、漢字文化学的な角度から、上古時代の両性の謎を提示するものである。



2010年5月27日木曜日

「羊」の起源と由来 基本的な象形造字法

 「羔」や「義」という字が「羊」を構成要素として作られていることを見たが、ここでは羊そのものの字のつくり、その由来について触れてみよう。


 羊という字を作る方法は、象形と呼ばれる。たとえ甲骨文字と金文文字の形は同じではないが、しかし皆、羊の頭の簡略化である。湾曲した角、二つの耳、特に突出し湾曲した角は人が一見して別の動物に見間違えようのないような図を示している。羊の字の手本として書くのは羊全体の形ではないが、羊の局部の特徴を持っている。典型的な特徴で事物の全体を現す一種の造字方法であり、漢字の象形の主要な方式の一つである。

一説のよると孔子はこの象形文字を見た後、「牛と羊の字はよく形を現している」と驚嘆したといわれている。 
 実際上、現在我々の前の甲骨文字の羊という字はアイディア法から言うと形で局部的な特徴を捉えているばかりでなく、現代の思考方法である「抽象化」を具現したものである。
 無論一種の芸術的思考、更にシンボル化の成果で、まさに21世紀の新しいコンピュータインターフェイスを啓発するものでもある。羊の字は一つの部首の字でもある。たとえば漢字の中では、祥、養、庠(古代の学校の意),烊(溶けるという意味)、氧(酸素)、漾(ゆらゆらたゆとう)、佯(偽る)、详、痒、翔など皆羊がその主体となる字であるか、或いはその発声としている。

  羊の性格は温順でおとなしく、食に群がり人と争わず、さらに人を傷つけることも出来ない。羊はまた肉として食に貢献し、皮は衣になり、腹がふくれ、暖にもなる。よって古人はその実用性と功利から羊を大吉、大利のいいことの兆しとみなした。

2010年5月26日水曜日

「義」の起源と由来 この言葉は今の世の中に必要ないのだろうか

 一昨年のヒットした中国映画は「赤壁」。蜀は漢王室の再興という「義」を掲げ魏と戦った。また昨年のNHKの大河ドラマの「天地人」の基本テーマは景勝の「義」と直江兼継の「愛」であった。ドラマはこの二人の武将の掲げる旗印を軸に展開した。

 このように中国でも日本でも「義」というのは、共通の思想というべきものかもしれない。「義」に対する態度で自己中心型と自己滅却型の違いはあるにせよ、両民族に共通して流れる思想が「義」であったことにはあまり異存はないであろう。最近では日本でも中国でもこの言葉はいささか古臭い響きから、少し敬遠されてくるようになったようだ。

 中国では古くからつい先日まで、「忠、孝、節、義」という言葉が、「仁」という言葉ともに人間の行動・生き方の規範として語られてきた。日本でも同じようにこれらの言葉が人々の生活に深く根ざしていた。しかし日本では、明治維新以降、この言葉は重きを失い、中国では文化大革命によって、孔子と共に葬り去られた。



 一方、日本では最近起こるさまざまな事件を眺めていると、それに関係する人々の間にその人なりの「大儀」があるようには思われない。もちろん犯罪における「大儀」は第3者から見た時、「言い訳」に過ぎない場合が多い。しかし少し前は、それでも良いか悪いかは別にして、誰でも「言い訳」をしていたように思う。しかし最近その「言い訳」が聞かれなくなって、やたら弁護士の「心神喪失」という第3者的な言い訳ばかりが目立つようになった。要は世の中が余り深く考えなくなった、つめて考えなくなった風潮の結果かもしれない。悲しいことだ。


 だがその中国を歩いてみて、まだこの旧思想と批判された言葉が言葉としてだけでなく、具体的な行動の指針として人々の間に息づいていることが分かり、人間は捨てたものではないと改めて感じている。
 日本と違うのは、中国は日本ほど資本主義に毒されていないのかもしれない。
 さて、今日は「義」という文字の由来・語源に焦点を当ててみたい。

ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、
甲骨文字「義」


金文「義」
「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。

このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。

 このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。
 
 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。


2010年5月24日月曜日

家 「家」の中になぜ豚がいるのか

今日は「家」の字そのものに迫る。なぜ、「家の中に豚がいるのか」

遥か3500年前の遺跡の考古学の発見から見ると先住民は豚を家畜として飼っていた証拠がある。甲骨文字の形から見て、家の中にある豚は一頭の雄豚である。しかしなぜ雄豚なのか?
この謎は太古の昔の雲南省の部族の風習から解き明かすことが出来るとし ている。
納西族の婚姻の習俗は母系性社会の族外婚の一つの段階にあった。女の子は成長した後も、家族の中の母と父と暮らし、それから後も彼女は一棟の部屋を持ち単独で居住することが許される。、氏族男子が夜訪れ、泊まることになる。
 
面白いのは、全く同じ習俗を、その当時の先住民の豚を飼う檻を訪れる野性の雄豚に発見することだ。夜な夜な彼らの豚の檻に野豚が訪れ、しかも同時に彼らの母豚をはらませ、巣に子豚を恵んでいる。この頼みもしない野豚はまるで太古の昔の男子と同様で、夜が明けるとすごすごと去ってしまう。両者は恐ろしくよく似ている。
 これが当時の男、野豚の雄の重要な役割であったということだ。男は部族の女にとっては共有財産?だったといえる。
この種の婚姻習俗はかつて優れたシステムであり続けた。殷商の末期には、商民族の中下層社会に敷衍した。しかし秦になって以降、この種の「放蕩?」な現象に制止が係り、以降この風習は廃れたという。何らかの理由でこのシステムの存在価値がなくなったのだろう。
これが家の字の中に雄豚のある原因である。
 こんなややこしいことをいうまでもなく、上古の時代は生産力が低いので、繁殖力の高い豚は珍重され、家の中で豚は飼われていたからだという説もある。

2010年5月22日土曜日

家と牢



甲骨文字「家」

金文「家」

 今日は牛がつく字についてもう少し深めてみよう。 「豕」は中国語であり、豚の意味である。今はこの字は使われず、もっぱら「猪」が使われている。
 この「豕」という字に、ウ冠がつくと「家」という字になる。

 ところが「牛」の場合にはこれにウ冠がつくと「牢」になる。豚と牛ではえらく扱いが異なる。豚は家に住み、牛はなぜ牢なのか。もう少し探ってみる。

牛は古代は一種の野生動物であった。すなわち野牛であった。家畜動物とするためには、牛の凶暴な野生を改造して、まじめにこつこつ働く牛、あるいは「牛っこ」の類の優良な性質にするためにこの有史以前の先住民たちは散々苦労をして、長い年月を掛けて事を成し遂げてきた。甲骨文字、金文文字の両方にある「牢」という字は牛が閉じ込められた状態を表している。

 殷や商の遺跡を発掘中、多数の大小さまざまな円形や長方形の地面に掘られた穴を発見した。これらは浅いもので2メートルから4メートルあり、深いものでは9メートルに達した。この穴の前面には上に上がるための道がつけられ、この坂道の底には木製の柵の門が取り付けられていた。もし野牛と捕らえたらここに押し込めたのであろう。そしてこの方法は数十年、あるいは数百年も掛けて何代も何代も飼いならす中で、更に飢えをしのぐ制度として奨励されてきただろう。


こうするうちに野生の牛のかたくなな性格も次第に消失し、何事にも耐え忍ぶ性格が構築されてきた。これは牢の功績である。
 「牢」の本来の意味は、牛を殺したり、養ったりするための地面に掘られた穴である。このことから家畜を養うための丸い柵のことを牢と呼ぶようになった。「亡羊補牢」(成語:羊に逃げられてから柵の修理をするの意味)の中の「牢」にもつかられている。さらにそれから犯人を捕まえて押し込めておく監獄牢や牢獄という言葉にも用いられるようになった。このほか「堅牢」のように堅固な状態を表す形容詞にも用いられるようになった。
このように家と牢では全く異なるのである。甲骨文字ではっきり分かるだろうが、家のウ冠は明らかに屋根であり、牢のウ冠の部分は紛れもなく「囲いと門」である。
 
 更に近年の研究で、この殷墟が栄えたあたりの黄河流域は今より温度が2、3度高く高温湿潤の地域であったといわれている。そのためこの辺りは、牛、水牛、虎、豹、象などが多数生息していた野獣の宝庫みたいなところだったかもしれない。そのことは漢字にも見事に表現されている。

 漢字の世界は深い。















2010年5月20日木曜日

「牛」の起源と由来 牛の災難

現時点で私たち日本人にとって、もっとも気がかりなのは普天間の問題もさることながら、身近なことでは、宮崎県で発生した「口蹄疫」のことであろう。
これは人間には感染しない疫病であるが、牛でも感染はとどまるところを知らない。今では13万頭ほどが処分の対象になっている。
少し前に大騒ぎになったのは、狂牛病というのがあった。これはまだ今でも我々に暗い影を落としている。こちらの方は肉を煮ても焼いても食べた人間は発病する恐れがあるといわれている。
こちらの方は、牛に牛の臓物を食べさせていたのが問題だということであったが、今回は牛の飼料にウイルスが紛れ込んでいたといわれているが、こんなに爆発的に発症する原因は、高密度で飼育する方法に問題があったとの報道もされている。牛もとんだ災難を背負わされたものである。
さてその牛は十二支では「丑」というまったく別の漢字があてがわれている。漢字の発生は「牛」と「丑」ではまったく異なる。

ここでは本来の「牛」について、漢字の起源を探るたびに出たい。

「牛」甲骨文字
「牛」小篆
古い文字の牛は水牛の頭を簡略化した図形である。上部は牛の角で下部は牛の頭である。特徴は牛の角であり耳がその特性を表している。


もしやはり古代文字の「羊」と比較してみると歴然としており、この両種の角が違ったように表現されている。漢字の中で牛のつく字はこの牛及びその動作行為から作られている。

牛のいわゆる字の音であるが、大概は牛の呼吸音から一種の擬声語のような音になっているが、その後「哞」という字が出来「もーもー」という牛の鳴き声に当てられている。



牟(ムー)甲骨文字

牛の字から派生したものに「牟」という字がある。この字の古文字は左の通り。
金文と小篆の牟という字は下部は牛の頭の形、上部は引き上げられた、あるいは湾曲した形を現している。これは牛が泣いているさまの表現である。

「牟(ムー)」小篆

甲骨文字の字形は牛と口の会意文字である。いわゆる牟の本義は牛の鳴き声なのである。東漢の文字学者の許慎は「説文解字」の中で「牟はすなわち牛の鳴き声なのだ」と述べている。尚現代の発音はmou、muと表されている。

後に”哞”(口偏に牟)という文字が作られ、牛の鳴き声はもっぱらこの字で表されるようになった。
”モーモー”結構。

「牛耳を執る」という故事についてはこちらをクリックしてください。

2010年5月11日火曜日

「羔」と書いてなんと読む

 先日「徹子の部屋」に宮崎美子さんが招待されて、彼女の漢字一級の知識を披露されていた。
彼女がクイズ番組などで活躍して知るのを見て、その明るいキャラクターもさることながら地道な努力が垣間見え、好感度の高いタレントだなと常々感心している。
 さて今日は彼女がその番組の中で披露していた、「羔」という字について少し補充してみたい。

 「羔」と書いてなんと読む? 実に難しい。「こひつじ」と読むらしい。これは当て字ではないかと思うほどである。しかし、「漢字の暗号」によると、どうもそうではないらしい。

子羊_甲骨

子羊_金文

これは甲骨文字、金文文字、小篆、楷書体をしめしたものであるが、唐漢氏の説明によると、羊を火に掛けてあぶっている状態を表しているということで、実に今から3500年前にすでにこの字は発明されている。しかしこれだけで子羊のことを言うようになったのはもう少し後世になってからの話だそうである、



子羊_小篆

 羔は羊、すなわち子羊のことである。甲骨文字も小篆も少し違った形はしているが、いずれも下部には火の記号が付け加えられている。甲骨文字の下部は象形の形をしているが、楷書になると火の形は変わって4つの点に変化している。

楚辞の中にもこの食べ方を体現した記述がある。子羊をあぶり焼きにするのは古代人にとって独特の方法であっただけでなく十分重要な位置を占めていたために、古代人は羊の下に火を加えて「子羊」という字にしたのであろう。

もっとも、字が作られた最初のころは、古代人も決して「羔」をすべて子羊をさしていたわけではなく、この表示は羊を火の上であぶったことだけに用いたのだろう。しかし実際上焼肉をするのに子羊を食材として用いたことは容易に考えられる。そして次第に「羔」が子羊のことをさすようになったものと考えられる。
 これは中国での食文化の上での話である。羊を丸焼きにする習慣などない日本で、この漢字をそのまま「こひつじ」と読ませるのはいささか難があるような気がするのだが・・。日本では「こひつじ」という読みは辞書にはないらしい。どの辞書(私の持っている)を引いても出てこない。